自分史 2011年05月08日更新
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流用パーツなどで改造はしましたが、家族から「臭い」「汚れる」と文句を言われるので、塗装まではなかなか出来ませんでした。
当時、地元の模型店には塗料・プラバン・プラ棒・タミヤのチューブパテくらいしか素材がありませんでした。
よく雑誌に載っていた「ポリパテを盛って改造」という記事をみて、ポリパテ=タミヤのチューブパテのことであると思い込んで大量に盛ってしまい、表面しか硬化しないわパーツはぐにゃぐにゃに溶けてしまうわ大変な事態になっていました。
もちろん、瞬間接着剤やピンバイスなんて買えなかったので、カッターでほじって穴を開けたりしていました。
タカラの1/72ソルティックやバンダイの1/100トラッド11が特にお気に入りで何個も何個も改造して作っていました。
今でも1/100ウォーカーマシンシリーズはバンダイの頂点にして最高傑作でしょう。この先もこれを超えるキットは出せないと思います。
コクピットがある「ゾイド」にももちろん興味はありましたが、一番安いものでも680円〜と100〜500円のキットを買うのがやっとの当時としてはとても高価で手が届きませんでした。
その反動か少し小遣いに余裕があった高校時代に「コマンドゾイド」というミニキット付きチョコボール(\100)が出た時は夢中で買いまくったものです。
中学生になっても部活(美術部)の時間中に立入禁止になっていた屋上への階段の踊場に隠れてプラモデルを作ったり品評会をしていました。
立ち読みブーム
普通の子供の小遣いではせいぜい100〜500円のプラモデルを買うのがやっと、塗料も皆で持ち寄って筆塗りしていたくらいで、新製品の情報源はキットの箱の横のラインナップイラストや入っていた小さなチラシ、模型店においてあった「3Dジャーナル」「超時空情報」「ドルバックニュース」などの安価な情報誌を見て知る程度(運が良いと古いのをもらえた事も!)、近所に書店も少なく模型誌まで揃っている所はなかったし、少ない小遣いで雑誌やマンガを買うなんてとんでもないことでした。
夏休みとかになると朝から集団で自転車で片道1時間以上かけて冷房の効いた大きな書店まで立ち読みに行くのがちょっとしたブームになりました。
そんな頃、空気の読めないとてもリッチな奴が「デュアルマガジン」という、なんとプラモデルキットより遥かに高価な雑誌を持ってきて我々は驚愕しました。
悲劇のダーナ・オシー事件
「ダンバイン」のキットが発売し始めた頃、学校で「昨日ダーナ・オシーのキットを買った!説明書にネオダンバイン(注:後のビルバインのこと)が載っていた!」と自慢げに言い出す者があらわれました。
当時、発売時期などの情報も無く、田舎の玩具店では新製品は1個か2個くらいしか入荷しない状況、しかも注目を浴びたいがために有りもしないキットを買った!と自慢げに嘘を言う奴もあとを絶たず、当然、彼も嘘つき呼ばわりされました。
翌日、彼は自分の証言を証明するためダーナ・オシーの組み立て説明書(当時はなぜか「設計図」と呼ばれていた。)を学校に持ってきたのですが、皆に見せる前に先生に見つかり没収されてしまいました。
かわいそうに彼の証言はダーナ・オシーのキットが店頭で目撃されるまで信じてもらえず、没収された説明書は戻ってくることはありませんでした。
その教訓から新製品キットを買ったらランナーに付いている商品名が刻印されているプレートを切り取って持参、証明するというローカルルールが生まれました。
エルガイムばらばら事件
エルガイム放送当時、ビデオデッキを持っている家は少なく、仲間内でも1人いただけでした。
ごくたまの家で生放送を見ることがあったのですが、そのビデオデッキを持っている奴の家の遊びに行くと録画したエルガイムなどを自慢げに見せてくれました。
しかし、結果として生放送で見れた回と順不同で見せてもらった録画した回をさらにバラバラの順で見ることになりストーリーなんてめちゃくちゃ、意味もなく「エルガイムは話が超難解だ!!」と信じられてきました。
同様の現象は「超時空世紀オーガス」などでも発生したものです。
そしてCD時代に入り、キングレコードが日本のプログレッシヴ・ロック専門レーベル「クライム」を発足。
クライム第1弾「ヴィエナ/オーヴァーチュア=序章」のCDがなぜか、まるで神様が自分のために用意してくれたかのようにレンタルレコード店に置いてありました。
早速借りて聴いてみると、壮大でドラマチックなプログレとメロディアスでスピード感あふれるハードロックが融合したような凄い音楽でした。
一般の人でも、ちょっと高度なロックくらいの気持ちで普通に聴けると思います。
解説を読むと、「クライム」レーベルから続々ジャパニーズプログレのCDがリリースされることと、ヴィエナのメンバーは知る人と知る実力派プログレバンドから結集していることを知ります。
こうして、ヴィエナのメンバーのルーツである「ジェラルド」「アウターリミッツ」からはじまり「テルズシンフォニア」「ミスターシリウス」など限られた小遣いの中から迷いに迷って少しづつCDを買っていきました。
この頃利用したCDショップは名古屋駅近鉄の愛曲楽器、メルサのヤマギワソフト、ユーテクプラザ、トップカメラなどでした。(今ではこれらのCD売り場は1つも残ってませんが…)
しかし、クライムレーベルからリリースされるアルバムは全体のほんの一部で、例えば「アウターリミッツ」というアーティストの場合、2ndアルバムは出ても伝説の名盤といわれる1stアルバム「ミスティームーン」などは「メイド・イン・ジャパン」という一般のCDショップでは扱わないレーベルからリリースされていたため、入手することが大変困難でした。
クライムレーベル(キングレコード)も再発を繰り返してくれるので、大変有難いのですが…
そんなとき、大須の「円盤屋」という中古レコード屋で遂にあのアウターリミッツの1st「ミスティムーン」のLPレコードと出会います。
早速買って聴いてみると、それは正に「シンフォニック・ロック」というのにふさわしいすばらしいもので、その夜は一晩中、A面を朝まで繰り返し繰り返し聴いていたのを覚えています。
それから、今池の「ピーカンファッジ」という中古レコード屋でプログレ専門誌「マーキー」を発見、御器所の「ディスクヘヴン」、千種の「エイト」というプログレ専門店の広告を見つけ「「メイド・イン・ジャパン」レーベルのCDの一部もなんとか入手できるようになりました。
さらに、大阪まで年に数回、泊りがけでプログレ専門店「エジソン」などのCDショップを巡回しに行くようになりました。
「エジソン」はエレベーターを降りるとすぐ店内になっていたのですが、ある日いつものようにエレベータが止まると、いつも流れているはずのプログレミュージックが聞こえてきません。
おかしいな?と思っている間に扉が開くと、なんとカニ料理店(?)になっていて「いらっしゃいませ!一名様ですか?」と言われてしまい、涙目で逃げるように去りました。
ところで、日本のプログレの紹介記事を見ると「日本のキングクリムゾン」だとか「ELPスタイルの…」など、海外大物プログレと比較され、どれだけ彼らの音楽・テクニックに迫っているか、ということばかり評価されることが多い。
確かに日本のプログレはプログレマニアからみれば、メロディアスすぎてプログレになりきれていないコピーやニセモノ、一般の人からは海外大物プログレの印象から難しくて暗い音楽といった中途半端な認識をされてしまい、なかなか「日本のプログレ」として独自の部分を評価される機会は少ないと思います。しかし、そんなドラマチックなプログレとメロディアスな音楽が融合したところが正に「プログレッシヴ」だと思うし、海外での絶大な人気の理由だと思います。
最近は、アウターリミッツ、ページェント、ジェラルド、ミスターシリウスなど紙ジャケ仕様のリマスター盤が続々リリースされたり、アウターリミッツの20年ぶりに新作がリリースされたり、地味ながら盛り上がりを見せ、ディスクユニオンやアマゾンなどの通販で簡単に手に入れることが出来ます。
皆さんにも、最近のただ騒いでいるだけの薄っぺらい音楽とはまったく次元の違う、ドラマチックで美しく攻撃的なサウンドをぜひ聴いてみて欲しいです。
また、各アーティストやCDもまたの機会にでも紹介したいと思います。
オーディオとレンタルレコード
最初、音楽に興味が無かったので、初めてのラジカセを手にしたのは他人とはかなり遅くビデオデッキよりかなりあとのことでした。
休日は友人とレンタルレコード店で洋楽などレコードを借り2本パックのハイポジションテープを購入、知人の家でステレオを借りてレコードをカセットテープに録音していました。
よくインレタで曲名やアーティスト名、アルバム名などを一文字一文字転写してカセットインデックスを作ったものです。
酷使したラジカセはすぐに壊れ、苦労の末、念願のミニコンポを購入、家でCDやレコードをカセットに録音できるようになりとても感激しました(レンタルレコードにCDが登場したのもこの頃ですね。)
このミニコンポ、本体は一体型なのですが、あたかもセパレートコンポのようにデザインされ、各コンポーネントに相当する部分にメーカーのマークがいくつも付いていてよく友人に笑われました。
が、やがて一番酷使したカセットデッキ部分が故障しました。
いきなりステレオ一式買い換える金など無かったので、カセットデッキ、アンプ、CDプレーヤー、スピーカー、FM/AMチューナー、オーディオタイマー…と、「週間FM」などの雑誌を参考に2〜3万円の安い単品コンポを少しずつ大須で値切っては買い揃えていきました。
左右のスピーカー設置条件をそろえたり、配線を最短にするなど、「安いコンポでも性能を引き出す」ことにこだわりました。
この頃買ったカセットデッキ、スピーカー、オーディオタイマーなどは今でも現役なほどタフで高性能です。
ゲーム嫌い
ゲームなどにはまったく興味がありませんでした。
友人の家に行ってテレビゲーム大会になったり、ゲーセンに連れて行かれても全然面白くなくうんざりしていました。ゲーセンで金を使うくらいならプラモデルとか買ったほうが良いと思っていました。
そのうちゲームウォッチで数千円、ファミコンで1万+ソフト代、さらにゲームのためだけに数十万円のパソコンを買う奴まで現れて自分の理解の枠を大きく超えていました。
いまでも、ゲームなんかで時間と金を無駄に消費するのは非常にもったいない行為だと思っています。
ビデオカメラとプロジェクト・フォンマースタート
「自分で考えたメカが出てくる映像作品を作りたい!」と思うようになり、ナショナルのNV-M3というVHSフルカセットビデオカメラを手にしました。
「プロジェクトフォンマー」はこの時にスタートしたと言っても良いでしょう。
このM3、VHSテープがそのまま使えたので撮影よりもレンタルビデオやエアチェクビデオのダビング編集に大活躍しました。
ノートの端に描いたメカの模型やセットを作って撮ったり、背景用の風景画を集めたり、どうやって背景やテロップを合成しようとか、どうやって模型を動かそうとか必死で考えていました。
「うんめいのたまごやき」などの短編も撮り、とあるテレビ番組に応募して見事参加賞を受賞しました。
もし、この頃、今のようにパソコンでCGや高度なビデオ編集が簡単にできる環境があったら、何かすごいものが生まれていたのかもしれませんね。
当時はまだまだ高度だったビデオのノンリニア編集にも果敢に挑戦しました。
失敗を重ねた結果、アイオメガBUZというアナログキャプチャBOXとHDDを増設して取り込み・出力に成功。
「メディアスタジオ」というビデオ編集ソフトでタイトルやテロップの合成はもちろん、憧れのクロマキー合成やオーバーラップも簡単に実現してしまい驚きました。
アナログのビデオ機器で同じ事をしようとすると、70万円の機材と再生2台、録画機1台、最低3台のビデオ機器が必要でした。
のちにDV編集機能を標準装備したソニーVAIO R30というパソコンに買い替えましたが、不安定で重い操作感にガッカリ。
なお、この前世紀のパソコン、VAIO
R30はCPU、OS、HDD、グラフィック、メモリ、ドライブなどを換装して今でも現役バリバリで活躍しています。
VAIOもソニー製ソフトを削除すると、驚くほど軽快になるのです。
※2008年8月にハイビジョンビデオ編集に対応するため、メインコンピュータを Core 2
Quad搭載自作パソコンに移行いたしました。
※2012年9月にメインコンピュータをVAIOオーナーメードモデルのSVL2411AJに移行しました。
3DCGをはじめました
あるPC雑誌に美しいCG画像とともに「誰でも簡単にこんな美しい景観画像が作れます!」という記事を見て、画像合成の背景素材不足を感じていた私は「いいですね!」と思い「Bryce
3D」というPCソフトを買いました。
確かヤマギワソフト・ナディアパーク店でで3万円くらいしたと思います。
ところがこのソフト、分厚いマニュアルは当時PC初心者でCG未経験者だった私には分からない専門用語ばかり、ソフト自体もバグだらけでファイルの保存すら正常に出来ないことがあるという、とても「誰でも簡単に美しい景観画像が作れる!」ような代物ではありませんでした。
(注意:無数のバグは次バージョンの「Bryse4」でほぼ修正されました)
それでも、解説本を見ながら格闘の末、なんとかCGらしい壮大な景観CGを作れるようになりました。
そんな「Bryce」のアニメーション機能を偶然試してみて、「おっ、CGで自作映画が作れるのでは??」と思いつきました。
しかし「Bryce」にはオブジェクトをインポートする機能はありますが、モデリングしたり、関節を動かすことが出来ませんし、レンダリングが遅く、数秒の動画生成も10時間ほどかかりました。
そこで総合型のCGソフトが必要になるのですが、もちろん何十万円するような定番CGソフトなんてとても買えませんので、安価なCGソフトをいろいろ試しました。
CG雑誌でなぜか強力プッシュしていたが超難解な「シェード」や国産の「3Dアトリエ」などはすぐ挫折。
結局、デモムービーだけで何となく使い方が分かり、直感的な操作が出来た「レイドリーム」にたどり着きました。
しかし、「レイドリーム」にはポリゴンモデラーが弱いという弱点がありました。
当時、ようやく導入したインターネットで「六角大王」や「六角大王SUPER」というソフトですごいモデリングする人達を見つけ、「少ないポリゴンでもこんなすごいモノが出来るんだ!」と驚き六角大王SUPERを導入しました。
この頃のバージョンの「六角大王SUPER」はモデリング機能しか無い潔いソフトで、少ないチュートリアルをこなすだけですぐ習得できました。
現行バージョンは機能が増えてチュートリアルも多くなってしまいましたが、モデリング関係のみやれば大丈夫です。
こうして
モデリング→六角大王SUPER
レンダリング→レイドリーム
背景、景観→Bryce
という構成が完成しました。
「レイドリーム」は次のバージョンアップで「カラーラ」という新しいソフトなりました。
「レイドリーム」を機能アップして「Bryce」風のインターフェイスを導入した感じでしたが、バージョン1ということもあり、やや使いにくい印象でした。
「次のバージョンアップで改良されるだろう」と思っていたら、開発元の会社がCGソフトの開発から撤退…
「カラーラ」は他社が引き継ぐことも無く開発が完全にストップしてしまったのです。
改良されることのない未完成とも言えるソフトを使い続けるより、今後のことを考えてソフトを乗り換えようと、再び手頃なCGソフト探しの旅をすることにしました。
「六角大王SUPER」で作ったモデルのインポートが出来ない「アニマス」やエラー続出の「ストラタ」などなど…
なかなかいいソフトに巡り逢えず、協力してくれるはずだった友人が交通事故で突然他界したこともあって、決してあきらめたわけではありませんでしたが、ヤル気が急速にダウンしました。
そして、数年の時が流れ、嬉しいことにカラーラの開発を引き継ぐ会社が現れ、英語版の新バージョンが発売されたとニュースが入りました。
しばらくすると、登場が心配されていた日本語版が発売され、私のCG熱が少し再燃します。
「カラーラ」はどんどん改良・機能アップして充分使えるソフトになり、今(CARRARA
5)ではBryse的な景観生成機能までもが内蔵されています。
サポートが悪いなどの指摘もあるようですが、日本語版が出続けるだけでもありがたいことですね。
今、考えれば、安価ソフト(といっても1〜3万円)をたくさん試した資金で高価な定番ソフトをドンと買っとけば良かったと思う時もありますが、良く考えれば、無理して買ってもバージョンアップやプラグインを入手する金が続かなかったと思いますね。
プラモデル病再発と食玩・カプセルフィギュアブーム
マスターグレードが発売された頃、プラモデル病が再発してMGザクやMG Zガンダムを発売日を狙って捜しに行くようになりました。
特にMG Zガンダムは発売から1ヶ月くらいは手に入らなく探し回っていたと思います。
もちろん仕事が終わってからなので20時に閉まってしまうような店には行けず、遅くまで営業していた藤が丘のバンビやブレーメンまでよく行ってました。
そんなとき、前の職場でひょんなことからプラモデル仲間ができます。
チョコエッグのおまけやカプセルフィギュアが凄い出来が良いという話から食玩・カプセルフィギュアブームになりました。
ちなみに私がはじめて買ったチョコエッグからはツチノコが出てきました。
上前津のトイコミやブレス、ステイル、まだ久屋大通にあったまんだらけなどに通い出したのもこの辺かな?
最初は定価以上でバラ買いするなんてとんでもない!と思っていましたが、いつの間にか利用するようになっていました。
マスターグレードもだんだん手抜き感が出てきて、食玩・カプセルフィギュアも溜まり邪魔になり、品質も落ちてきたことで大部分を処分してブームは終わりました。
しかし、人体模型シリーズとオカルト関係は今もお気に入りでまだ部屋に展示してあります。
いまでも古いプラモデルなどや復刻プラモデルも買ってしまいますが、作る時間がありませんね。
「矢場とん」の思い出
当時、「焼きとんかつ」、御器所の「とんき」など美味しいとんかつの世界を知ってしまい、ちょっとしたマイブームになっていた時期がありました。
そんな時、知人と一緒にまだ小さな店だった「矢場とん」に行くことに。
並ぶのは嫌だったので平日のランチタイムも過ぎた空いている時間を選びました。
味は「焼きとんかつ」や「とんき」みたいにインパクトがあるわけではなく、有名な割に普通な味噌カツだなという感じでした。
店内はそんなに混んでいる訳でもないのに食べていると店員が「邪魔!椅子を引っ込めて!」と椅子を蹴っ飛ばして来ました。
さらに私が食べ終わって、まだ食べている連れを待っていると「早く席を空けて!」と怒鳴ってきました。
もちろん今では店舗も大きくなり店員の教育も出来ているとは思いますが、今でも「矢場とん」は私の中で「感じ悪い飲食店」最上位の店として燦然と君臨しています。
大きなビルになりチェーン店をあちこちに増やして、イイ気になっている「矢場とん」の前を通るたび「良い店は消えているのになぜこんな店が残っているんだ!」と怒りの青い炎がメラメラと燃え上がるのです。
「M鉄問題」と「愛知万博」の大失敗
常滑市に空港が建設されることになり、常滑線を空港まで延長することになりました。
「空港開港まで間に合わない」という理由で利用者の反対を押し切って、仮線を設置せず常滑駅-榎戸駅間を閉鎖して工事が行われ、その間、代行バス運行となり多くの人の毎日の通勤・通学時間が大幅に増加してしまった「M鉄問題」が起こりました。
しかし、世の中は空港開港や愛知万博に向けて浮かれていて、この問題は報道すらされませんでした。
また、この頃「東海地方の景気は絶好調!!」と言われていましたが、街では店舗がどんどん店じまいして「ホントに景気が良いのだろうか?」と疑問を感じた時期でもありました。
景気が良いと信じていた名古屋人は金があってもブランド物しか買うモノがないらしく、ブランド物を扱う店ばかりどんどん増え名古屋の文化レベルは地に堕ちていきました。
今現在の名古屋の市街地では書店・CDショップ・ホビー・雑貨・映画館・スーパーすら激減してしまい、とても不便な街になってしまいました。
ちょっと欲しいものがあると、大阪、東京まで足を伸ばすか通販に頼らざるを得ない状況です。
深刻な環境破壊の実態を人々に知らせる絶好の機会だったはずなのに、結果的に環境破壊とお祭り騒ぎと商売だけに終わってしまった愛知万博「愛・地球博」も大失敗と言わざるをえないでしょう。